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2006-01-23 Mon 09:55
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(前回からの続き)
最近、「有楽斎さん、あなたは無神論者ですか?」と問われることもしばしばあります。折角の機会なので、ここで回答しておくと「現時点の私には分からない」という立場を取るとしか言えません。「アプリオリなものは好きなものを選んで取捨選択する」という立場を取るということです。 なぜなら、「神」や「仏」がいるとされる世界に私は行ったことがないのです。生身の体を持って神秘体験をしたとしても、それは脳が酸欠状態になれば、誰だって可能なのです。薬物で涅槃を体験できる程度なのです。オウムではそれをやっていたわけですから。 もちろん、深いヨーガの体験から、ラージャヨーガ、クンダリーニヨーガに至って、さらに生前解脱ということを自らが体験すれば「これか!」と膝を打つかも知れません。 しかし、現時点での有楽斎はそうした超越的な神秘体験を経験していないし、瞑想レベルで達することが出来る神秘体験レベルは生理作用だろうと考えているのです。実際、ある脳機能科学者の主催する非公開型のワークに参加して、脳のVTAを使った脳内物質分泌の実験をこの身体を使って体験したことがあります。守秘義務があるので、詳しくは書けませんが、薬物を使わなくてもこうした神秘体験は可能です。 こう書くと、「いやいや、有楽斎さん、それはまだ浅い体験だよ。あなたにはスピリチュアルが何たるか分かっていないようです」とお叱りを受けるかも知れませんが、これが現時点の有楽斎の世界観なのです。 私は「わからない」状態を敢えて維持し続けており、だからこそ「わかろう」とするのであって、「わかった」という状態に重きを置いていないのです。この微妙な差異に、敏感なあなたは既にお気づきのことと思います。 言葉を変えて言うならば、「あの世」の論理を「この世」に持ち込んで、いくら情理を尽くして説明を受けても、「あの世」体験がなければ、それは理解したことにはならないからなのです。人間は、体験や経験を通して学ぶように出来ているので、体験や経験を通さない学びは理解することができません。 今、研究しているNLPもそうだし、以前から密教の阿闍梨に学ばせてもらっている真言密教やチベット密教もそうだし、占星術、陰陽道、グノーシス(こんだけ書くとあんた十分怪しいじゃんと言われるかも知れませんが・・・)一向にわからんな〜という姿勢を保つのが最良だと考えています。 ここまで読んでいただいた方の中には、「有楽斎さん、密教なんて大日如来じゃん。おかしいじゃん?矛盾してんじゃん」という方もいらっしゃるかも知れません。「おお!よくぞ見抜いた!さすが!」と感心してしまうのですが、これはOKなのです。私の中では全く矛盾していないのです。 私の感じる、眼耳鼻舌身意と色声香味触法だけが私の世界であって、そこに私が臨場感を感じていれば、それは私にとっての「現実世界」なのです。 だからこそ、私はそこに明確な意図を持って、密教なら密教の世界観にリアリティを感じることを選択できるし、より物理的な脳機能を学ぶ際には、その脳機能にリアリティを感じることを選択できるのです。私が「できる」という言葉を使っていることに注意して欲しいと思います。 つまり、私という世界の中の一領域をそうした空間のために開放しているという感覚なのですね。だからこそ、私の中では全く矛盾していないわけなのです。 ここは極めて大切なところです。他者が作った世界の中に、選択不可能状態で投げ込まれているのか・・・。自らが作った世界の中に、選択可能状態で領域を開放しているのか・・・。 前者の場合、自分が他者の世界で生きていることを知らない場合がほとんどです。だからこそ、外の世界に移行しようとすら思いません。後者は、選択的にさながらスイッチを切り替えるように、他者の世界を渡り歩くことが可能です。 ここまで書くと、勘の鋭い方はこうおっしゃるのではないでしょうか? 有楽斎さん、 それこそが、あなたの世界の押し付けなんじゃないですか? 然り! こうして私達は、他人の世界の中に知らず知らずの内に住み始めるのです。それが他人が作った世界だとは気づかないまま。そして、その世界を創った人に答えを求めるのです。なぜなら、その世界を創った人のみが答えを持っているのだから。これにご利益が絡み出すと、カルトになります。最近のスピリチュアルブームのスピリチュアルは全部この類です。 ここで、話はこのブログを貫くひとつの公理に戻ります。世界は自らの外にあると考えるか。世界は自分が知覚したものだけであると考えるか。きちんとループが閉じそうなので、この辺りで終わりにしましょう。 |
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