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2005-12-28 Wed 16:56
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いわゆる世界的な近代宗教(キリスト教・イスラム教・仏教など)は、原始宗教にしばしば見られるような「神と人間の関係が対等」という立場、または「人間が神を使役する」というような、人間が神の上位になる関係を避けることで成り立ってきたと言われています。
分かりやすい例をあげますと、例えば、私たちが普段から何気なく使っている「御利益」という概念もそうです。お百度参りと称して、池も凍るりつくような寒い日の夜に、裸足でお百度を踏んで一心不乱に祈る。または、水を頭から浴びて水行するなどがあげられます。 また、モーゼの頃には、羊だか山羊だかを殺して生け贄として祭壇に供え、アラーの神に捧げたりもしていましたね。このようにして、人間側がなんらかの犠牲を神に支払うことで、その対価として「よしよし、お前はよく務めているからお返しをあげよう」ということで、神がお返しに利益をくれるという発想が「御利益」という概念です。 これは、視点をちょっと変えてあげると、人間が行った何らかの神への行為に対して、行為を受けた神側が何らかの見返りをお返しなければならないという契約に基づくものです。この発想の根底にあるのは、人間と神の立場を対等と見なすか。または、人間上位の立場に置くものといえます。そうした面もあり、日本神道はまだまだ世界宗教にはなれません。もちろん、日本に入って変質を遂げた仏教も世界に輸出することは難しいというわけです。
つまり、神の行為を定義する。神の存在を定義する。神が何をくれるかを決定するのは、人間の脳であって、人間の脳では、神が何かなど分かるハズがないし、もし分かったとすれば、それは、その時点で神などが存在しないことを意味してしまうわけです。 この辺り、古来から神学論争などで十分に語られてきた歴史もそれなりにある論理なのですが、最近のスピリチュアルブームを鑑みると、あまりにあっさりかつコロリとこの辺りを無批判に受け入れる方々が日本国内でも増加しているのではないかと危惧したりもしています。 みなさんは、ご自分の人生を生きていますか?? |
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